日曜地学ハイキング記録

丹沢−足柄−箱根の地質をみて考える

カルデラ式火山でなかった箱根火山
プレート境界でなかった神縄断層
南の海からやって来なかった丹沢

これらの謎にせまる

題字 角田史雄氏




第343回日曜地学ハイキングを西暦2000年11月25〜26日に実施しました。



今回の見学コースの概要は次の通りです。

日時:11月25曰(土) 10:00  
集合:JR 御殿場線「駿河小山」駅   解散:小田急「新松田」駅 16:00頃

みどころ @箱根火山の土台(基盤岩)の観察
      A土台と箱根火山堆積物の不整合
      B丹沢地塊と足柄地塊の境界の観察
      C丹沢地塊の結晶片岩の観察
      D足柄層群の最下位層(溶岩)の観察
      E松田山から望む足柄盆地・箱根火山

コース:駿河小山駅→乙女峠→箱根宮ノ下の早川河床大平台→乙女峠→宿舎「大胡田荘」
 「大胡田荘」→駿河小山→塩沢の林道→丹沢胡→中川温泉深沢の酒匂川松田山→新松田駅

主 催:地学団体研究会埼玉支部、日曜地学の会
案 内:角田史雄(埼玉大学)
地形図 国土地理院1/25,000「駿河小山」、「山北」、「中川」、「箱根」
持ち物:弁当、水筒、ハンマー、筆記用具、定規、新聞紙
参加費:15,000円(保険代・資料代・宿泊費・コンパ代・諸経費)



原図 角田史雄氏



第1ポイント 箱根火山の土台(基盤岩)の観察

 これまで、箱根火山はカルデラ式火山と教えられてきました。次のAとBはインターネットで検索した「箱根火山」の成り立ちを示したものです。

A 箱根火山の生い立ち
B 箱  根  火  山   

 日本で最初に「箱根火山」を研究されたのは、久野 久氏です。久野氏は1950年、1951年に「箱根火山とその周辺地域の地質」という英文の論文を発表されました。この論文で箱根火山カルデラ説が提唱され、その後、広くこのカルデラ説が周知されることになりました。B箱根火山に示されている地質図は、久野氏の作成された地質図に最近の知見により一部修正加筆されていますが、ほぼ久野氏の作成されたものに近いものです。加筆修正された点は T:早川凝灰角礫岩のところです。しかし、箱根火山の形成を示した断面図には、早川凝灰角礫岩が示されていません。

 はじめの観察ポイントは、この早川凝灰角礫岩層でした。元旦の箱根駅伝の最大の見所は箱根登りです。いつも宮ノ下にカメラが設置され定点ポイントとなっています。道の両脇には温泉旅館が建ち並んでいます。この本道の旅館の脇から細い急な坂道を下って行きました。その坂道の途中にさしわたしが数メートル以上にもなる安山岩の巨角礫がありました。さらに坂を下り、早川に架かる小さな橋を渡り、河原に下りました。ここが早川凝灰角礫岩層の一番下にある礫岩層であるということです。この早川凝灰角礫岩層は、550万年〜350万年前の後期更新世に堆積した海成層ということです。(注:この早川凝灰角礫岩は、近年、箱根火山の各所で掘られたボーリングの結果、箱根火山の底に広く分布していることが判明している。中でも、乙女峠でのボーリングでは峠の下600メートルにも確認され、標高200メートルの位置に早川凝灰角礫岩があることになる。)

 ここで、礫岩層を観察しました。礫種は、砂岩、泥岩、安山岩、凝灰岩、スコリア質凝灰岩、火山灰質の泥岩も観察されました。それに加え、案内者の角田氏が花崗岩も見つけられました。この花崗岩や閃緑岩が発見されたことが重要な点です。海洋プレートは海嶺から湧き出したマグマが固結したものというのが定説です。ということは、玄武岩から成っており、陸のプレートを特徴づける花崗岩や閃緑岩が混じっているということは陸域に近い海底に堆積した地層ということになります。つまり、“海洋プレートにのった島々からの堆積物ではない=海洋プレートにのってやってきた地層でない”といえるわけです。
 
 箱根火山の下底に広く早川凝灰角礫岩層が分布し、火山堆積物が見つからないということは、久野氏の提唱したカルデラのような落ち込みを確認するものではなく、土台となる基盤岩の上に火山活動があったことを示すもので、富士山のような成層火山が最初に出来たということは否定されることになります。B箱根火山に示されている地質断面図のようではないということになります。

 > 神奈川県温泉地学研究所報告, Vol.31, No.1, 1-15.(1999)
 下湯場地域は箱根火山中央火口丘の北部に位置する。この地域で掘削された2本の温泉井戸のボーリング地質を検討した結果次のことがわかった。(略)
 南側の2号井では表層から標高400m付近まで厚さ200m以上の溶岩流、それ以深は凝灰角れき岩である。両温泉井は700mしか離れていないが、地層が大きく異なる。2号井の凝灰角れき岩は早雲山の地下でもみられ、中央火口丘の地下にはひろくみられる地層である可能性がある。(萬年 一剛)


 下の図は、K-Ar 年代による箱根岩石層序図(平田 1996)です。早川凝灰角礫岩層などの土台の上に箱根火山は形成されたと考えられ、その先駆的な活動はどうやら65万年ほど前に始まった湯河原町天照山付近に分布する玄武岩火山がそれのようです。火山活動はそれ以後、5〜15万年の活動期、2〜4万年休止期間のサイクルで4回線り返し今日の地形を造り上げられたと考えられています。
 このように、久野氏は高さ2,700mの頂上を持つ一つの成層火山が出来たとしていますが、岩質的に生成の時代が異なっており、少なくとも5つ以上の複生火山として出来たと考えられます。(Hirata,Y(1996):Geology and volcanic activity of Hakone volcano, Japan)
 以上のことから、箱根火山はカルデラではなかったと考えられる。



第2ポイント 土台と箱根火山堆積物の不整合

 早川凝灰角礫岩層を観察した河床からやや下流に、箱根火山堆積物との不整合が観察されるポイントがあります。残念ながら、ここのポイントは対星館別館の敷地内のため、そばによって観察することは出来ませんでした。不整合面は高角度に傾斜しており、基盤の早川凝灰角礫岩層も、それに直交するように高角度で傾斜しています。不整合面を浸食面として水平に戻すと、浸食を受けた時代には早川凝灰角礫岩層は垂直なほどに傾斜していたことになります。箱根火山堆積物は、早川凝灰角礫岩層が浸食を受けた時代より遙かに後に、これまで「新期カルデラ」とされていた約10万年前の箱根火山の最終段階で発生した土石流堆積物と考えられています。なお、早川凝灰角礫岩層が形成されたのは、箱根火山が出来る前、60万年前以上ということです。
 
 箱根火山の土台、すなわち基盤岩類は、早川角礫凝灰岩のほかに、新第三紀中新世頃に始まる海底火山の噴出物と考えられている湯ヶ島層群や、奥湯本から湯本にかけての須雲川沿いにある「須雲川安山岩」が、早川角礫凝灰岩層とともに箱根火山の土台となっています。早川角礫凝灰岩層は、湯ヶ島層群の上に堆積したと考えられています。須雲川安山岩は溶岩流が固結したものと考えられています。これらは箱根火山が出来る前の百万年前頃に形成された地層です。
 箱根火山は約40〜50万年ほど前に活動を開始し、4〜5万年前に、台ケ岳・神山・陣笠山・駒ヶ岳・二子山(約5000年前)など7個の火山が次々と形成した後に、活動を終息しています。これらは、これまで「中央火口丘」とされていました。

 > 箱根火山の活動 (角田氏作成の事前学習会資料より)
 まず南はじの湯河原の藤木川あたりで火口ができた。この噴火が65万年前で、それから15万年後に南西〜西側の御殿場市側と北東〜北の小山町〜山北町側が噴火して、最後に中央部の北西〜南東方向が割れたらしい。(略) この北西〜南東の噴火口列を北西にのばしていくと、富士火山の側火口群列に重なる。




学習会 早川角礫凝灰岩と箱根火山の成り立ち

 第2ポイント観察後、次のポイントである大平台まで箱根登山鉄道で移動し、早川角礫凝灰岩をさらに詳しく観察する予定であったが、川の増水のため観察は断念し、再び乙女峠を越え、宿舎の「大胡田荘」に向かった。
 食事後、今日の観察結果を行い、各班ごとに報告を行った。はじめに、早川角礫凝灰岩を、構成する礫種について整理し、それらの礫の起源について説明を聞いた。つぎに、早川凝灰角礫岩層と箱根火山堆積物との不整合と不整合面や早川凝灰角礫岩層の層理面の傾斜の成因について、各班から推論が出された。
 > 箱根火山の土台について(角田氏作成の事前学習会資料より)
   なお、赤字は「原文」になく筆者が加筆したもの

 @ 足柄層群(第3ポイント、第5ポイント参照)の地層は箱根火山の基盤(湯ヶ島層群)の上にアバット不整合(層理面が不整合面と平行せず、著しい角度で斜交している)の関係で重なる
 A 上記のことから、足柄層群の堆積した時代に、箱根は陸であった可能性がつよい。その証拠に箱根火山のまん中には、足柄層が基盤の上に重なっていない。
 B しかし、足柄層群の中には、その時代の箱根火山の基盤の礫が見つかっていない。このことは、当時、箱根が礫を作り出すほどの山ではなかったことを示す。
 C 現在の足柄の地下には、箱根の基盤の湯ヶ島層群や丹沢山地の平山累層・松田山累層と同じグリーンタフおよび閃緑岩のある可能性がつよい。なぜなら、100万年〜90万年前ごろに噴出した山北層群の火砕岩にはそれらと同じ種類の岩石の礫が含まれている。足柄地域のボーリングでは、地下600メートルまで足柄層群が確かめられているので、基盤は海抜マイナス200メートル以深にある。一方、箱根火山の基盤でもっとも高い分布高度は標高600メートル地点にある。したがって、箱根火山の基盤は、足柄地域のそれより、800メートル以上も高い。
 D 箱根火山の基盤岩の礫が足柄層群にまぎれこんでいないとすれば、足柄層群が堆積しおわる100万年〜90万年前ごろまでは、基盤の上昇を考えにくい。65万年前以降は、箱根火山が生まれて、箱根の基盤を火山灰などが覆って、礫は生産されない。したがって、90万年〜65万年前ごろが箱根の基盤の隆起した時代になる。このときに箱根山ができ、その最大隆起の時代に基盤が割れて噴火しはじめたと考えられる。

原図 角田史雄氏



第3ポイント 丹沢地塊と足柄地塊の境界の観察

 2日目は、宿舎の近くから富士山を眺め、足柄−丹沢に向かった。この日は雲一つない快晴で、富士山の姿がくっきり、まさに霊峰の感であった。
 我々を乗せたバスは集合場所の駿河小山を通り東名高速道に沿って進み、酒匂川から河内川に名を変えるところから丹沢湖方面へ曲がる。すぐに河内川を渡り、キャンプ場のそばから塩沢林道に入った。林道の詰め所でカギをもらい、ゲートを開け、バスは林道をくねくねと進んだ。

 最初の露頭は、こい緑色の硬い火山岩で、安山岩や凝灰岩の大きな礫がぎっしりと詰まっている印象であった。また、閃緑岩の巨礫も取り込まれていた。ここから、引き返すように林道を下り、小菅沢断層の露頭に向かった。残念ながら、断層は地層・岩石がグチャグチャに壊されているため、コンクリートで覆われていた。(角田氏ら研究者は、林道へ入ることと引き替えに研究成果の一部を林道管理者に報告しているとのことで、断層の存在を知った林道管理者が安全対策を施した次第である。)
 さらに下ると、地層の顔つきが一変した。軟らかい地層で礫が簡単に取り出せた。前期更新世の足柄層群塩沢累層である。昨日みた早川角礫凝灰岩層よりも後の150万年前とされている。コンクリートで覆われた箇所に戻り、断層の位置と走向、傾斜の説明を聞く。ほぼ北西−南東の断層面であった。
 さらに林道を下り、大野山が眺められる所にでた。大野山の右(南)に明らかな地形の変化が読みとれた。そこが神縄断層ということであった。地形図上からも断層線らしきものが読みとれる。


第3ポイント上空より第5ポイントを望む想定図(数値地図より作成)
矢印は地形の変化する線で丹沢と足柄の境界


 丹沢−足柄の地質境界は下図(地震調査研究推進本部)のように、丹沢層群(平山累層)、松田山累層、足柄層群などが多くの断層で切られた境界をつくっているもので、神縄断層だけではないということです。




 > プレート境界断層に祭り上げられた「神縄断層」(角田氏作成の事前学習会資料より)

 日本で、プレート説が話題になりはじめた頃の1972年に、杉村 新氏は、伊豆地塊をとりまく褶曲群は、伊豆地塊が丹沢地塊へ衝突したことでできたとして、その後も同じ運動が続いたとすれば、100万年前以後にはどんなことが起きるかについて考えました。そして、神縄断層が逆断層になっているのは、丹沢山地側が上がったからではなく、伊豆地塊がその下にもぐり込んだ結果ではないか、と想定してみたのです。さらに、重力の測定結果なども参考にして、それに続く足柄平野のへこみは相模トラフへと連続しているのであろう。その反対の西にある御殿場側では、黄瀬川の低地があり、駿河トラフに続く可能性があるではないか、と思ったのです。こうした説明は、物理探査という近代的な調査結果も含まっており、地形としても良く見えるので大いにもてはやされ、しだいに「伊豆地塊の丹沢地塊への衝突・もぐり込み」というモデルが常識化していったとみられます。「もぐり込んだブレートが反発して跳ね上がって地震をおこす」とか、「地震の起こっていない駿河湾一帯には、地震をひき起こすエネルギーがどんどんと蓄えられている」などの仮説も加わって、ちょうど、そのころはじまった地震予知計画の豊富な研究資金がこのモデルの後押しをしたことも確かです。


上図は地震調査研究推進本部HPより、下図は小山真人氏HPより


 > 「神縄断層」の生い立ちと実像(角田氏作成の事前学習会資料より)

@ 「神縄断層」 の命名の生い立ち; まず、加藤鉄之助氏が1910年に、高い山に古い御坂層、低い河原に新しい足柄層が分布しているから、その間には、北に45度より低い角度でかたむき、御坂層を構成する「神縄帯」が足柄層にのし上がるような断層があると考えられる、と報告しました。河原というのは酒匂川上流の河内川のことで、場所は中川温泉の南にある神縄(かみなわ)というところです。彼は断層の存在を予見しましたが、断層そのものは見つけていません。(略) 1951年に報告された久野 久氏の神縄(かんなわ)断層は、図で示されただけで説明がありません。しかし、加藤氏の定義にしたがって、西の小山から神縄を通り、久里まで、断層線がひかれ、「神縄逆断層」と命名されています。
A 世に知られる「神縄断層」; いま、一般に言われる「神縄断層」は、松島義章・今永勇氏によって1968年に定められたものです。かれらは、久野氏の報告のあった地点の断層の観察を行い、小山−神純−久里−中津川に「高角の逆断層」からなる断層線を設定し、天野一夫氏ほか(1986年)や足柄団体研究グループ(1986年)も、これを追認しました。
B 神縄断層は1本の断層ではない; 松島・今永両氏の「神縄断層」は1本の断層線で描かれましたが、佐藤正氏は1975年に、その断層を切る北東‐南西方向の断層群を明らかにして、この断層はいくつかの断層で組み合わされてできた断層帯といえる、と述べました。
C 「神縄断層」を観察できるのは、拡大解釈されているものも含めて、わずか 4ヶ所しかありません。

断層の実像
@ 「神縄断層」 の実際の位置; 1960年代末から1980年代なかごろまで、非常に多くの研究者が丹沢・足柄・伊豆へと殺到しました。研究会や論文もたくさん出ました。しかし、それを過ぎると、あっという間に、このブームが去りました。何人か残ったうちの1人、角田史雄氏は、松田山の北側にあたる久里‐中津川の部分のいわゆる「神縄断層」は、松田山の南側に通すべきであるという報告を1997年に公表しました。彼は、松田山からの久津間文隆氏(埼玉支部)の化石(後期中新世の大型有孔虫)の発見を重要視して再調査し、丹沢層群と同じ時代の化石(ナンノプランクトン)を見つけました。これにより、松田山の部分は、丹沢側に含まれることがはっきりし、神縄断層は、その山の南側以南になければならなくなりました。
A 「神縄断層」 の断層崖と落差; 松田山の南麓の丹沢層群と足柄層群の境界部は、その大部分が箱根火山の噴出物で覆われ、断層を直接見られるところはありません。しかし、幅50mほどの距離で、2つの層群の地層は確認できます。そして、そこは10mほどの崖がずっと続いています。この崖の南側の低いところには、6〜3万年前の武蔵野ローム層と同じ時代と考えられるローム層があるので、この崖(ほぼ神縄断層にあたる)は、6万年前ごろにはすでに存在していたといえるでしょう。
 さらに、神縄断層の南側700m地点に掘られた温泉ボーリングの資料に基づけば、深さ600mに足柄層群の瀬戸層が埋まっていること、瀬戸層には500〜300万年前のナンノ化石が含まれていること、それより下位にある深さ900mの地層は松田山累層に似ていることなどが分かりました。地表に出ている瀬戸層の傾きの角度を、地下にそのまま伸ばしていったところに、ボーリングで確かめられた瀬戸層が埋まっていることが確かめられたのです。このことから、この断層は、少なくとも、600m以上の落差をもっていることになります。
B 国府津−松田断層に続き、小菅沢断層に切られる神縄断層 断層崖の方向を南東にたどっていくと、そのまま国府津−松田断層へと連続していきます。すでに紹介した神縄断層の地下構造は、最近わかった国府津−松田断層の地下のしくみとも非常によく似ています。いっぽう、西の方では、この断層は、より新しい小菅沢断層という断層に切られています。両者がべつべつの断層であることは、前者の断層面はスパッとナイフで切ったかのように滑らかになっているのに、後者のそれに接する地層・岩石がグチャグチャに壊されています。これらをとり巻く地層の違いはほとんど無いのに、まったく違った切れ方をしているので、これらがほぼ同時に、同じようなメカニズムで形づくられたとはとても思えません。どう見ても、神縄断層が早くできて、それを後でできた小菅沢断層が切ったとしか考えられません。したがって、伊豆地塊がもぐり込みながら、こうした境界断層をつくったという考えでは、野外で観察されて分かる、断層に関する事実を説明できないのです。
 以上のことから、神縄断層はプレート境界の断層とは考えられない。



丹那断層と箱根火山に関する別の研究者の考察と仮説

 上記は小山真人氏の論文で、同氏は、丹那断層から北方へ箱根火山のカルデラ内を貫き足柄山地を横切る平山断層を丹那―平山構造線と呼び、これをトランスフォーム断層とみなす作業仮説を提案しています。丹那―平山構造線と西相模湾断裂にはさまれたブロックが一種のマイクロプレートのようにふるまうとする見方です。
 小山氏と高橋正樹氏は,箱根火山は丹那―平山構造線に沿って生じたプルアパート構造(横ずれ断層の変曲部の断層面が断層変位によって剥離して生じる空隙)にマグマが蓄積することによって,大規模な珪長質マグマ溜りを成長させたとの仮説を提唱しています。 丹那―平山構造線をトランスフォーム境界とし,伊豆半島北東部が丹沢山地下に浮揚性沈み込みをおこない,その沈み込みにともなう変形前縁として神縄断層に連なる国府津-松田断層が生じたとするモデルを考えられています。氏らの考えでは神縄断層も沈み込みにともなう変形前縁ということになるのだろうか。
 小山氏は上記論文では、箱根火山をカルデラ火山との見解を追認されている。そのため次のような箇所もある。
  日本のカルデラ火山の多くは地殻ひずみ速度の小さな地域に存在し,その恩恵を受けながら大きなマグマ溜りを安定成長させてきた。これに対し,衝突帯という地殻ひずみ速度の大きな地域に存在するカルデラ火山である箱根火山はきわめて例外的な存在である。
小山真人氏のプレート境界図

プレート境界の位置の問題

 これも小山真人氏の論文(HP上に公開されており我々一般人も読むことができる)で、プレート境界の位置の問題について、つぎのように紹介している。

 伊豆・小笠原弧北端部におけるPHS(フイリッピンプレートの略)北縁境界の位置を初めて議論した杉村(1972)は,境界が通る場所として駿河湾北端の田子ノ浦と足柄平野を流れる酒匂川とをなめらかに結ぶ構造線(田子ノ浦・酒匂川線)を推定し,箱根火山北方の活断層として知られる神繩断層(図1)を田子ノ浦・酒匂川線の一部と考えた.
 しかし,その後
神繩断層は数多くの横ずれ断層群(塩沢断層系,中津川断層系)によって分断されていることがわかり(たとえば,狩野ほか,1984;Ito et al., 1989),すくなくとも現在の神繩断層はプレート相対運動を解消する単一の境界でないことが明確になった.このような事実から,石橋(1977,1980)は,伊豆半島北縁のプレート境界ではすでにプレート収束運動がおとろえ,現在は西相模湾断層で収束が始まっており,西相模湾断層と駿河トラフの間は伊豆半島南部を通る幅をもった右横ずれ帯(伊豆トランスフォームベルト)によってプレート相対運動が解消されていると考えた.また,Tada and Sakata (1977)および多田(1977)は,1923年関東地震時の地殻変動にもとづいて,現在のプレート境界としては熱海と沼津をむすぶ構造線(熱海―沼津構造線)を考えた方がよいと主張した.
 これらの考えに対し,中村・島崎(1981),島崎ほか(1981)およびNakamura et al.(1984)は,プレート沈み込み境界を高い精度でみる場合には物質境界と力学境界という2種類の概念(図2A)が必要であるとし,PHS北縁境界においては,
駿河トラフから黄瀬川低地・箱根火山北縁・足柄平野を通って相模トラフにつづく線が物質境界,物質境界の本州側をとりまく活断層の集中帯を力学境界と考え,西相模湾断層をプレート内部の副次的な断層として扱った.
 プレート物質境界/力学境界の考え方は,その後の本州弧―伊豆・小笠原弧衝突帯のテクトニクス研究に大きな影響をあたえたが,中村らのプレート境界の引き方自体にはさまざまな反論が提出されている.沈み込み境界としての西相模湾断層の考え方を撤回し,あらたにPHS内断裂という西相模湾断裂(WSBF)の考え方を採用した石橋(1988)は,相模湾におけるプレート物質境界の位置を,中村らの考える相模トラフ軸よりもさらに南に考えた.また,大河内(1990)と松田(1993)は,
相模トラフ断層から真鶴海丘南縁断層につらなる構造線を関東地震の主スリップをおこすプレート力学境界断層とみなし,力学境界の南縁をやはり中村らより南に考えた.

伊豆半島内部の凹み 伊豆半島はプレート衝突の圧縮を受けていないの?



第4ポイント 丹沢地塊の結晶片岩の観察

 再び、バスにゆられて中川温泉に向かう。この日は、たまたま丹沢湖マラソンが開催されており、途中、マラソンの一行が通り過ぎるのを待った。このため観察ポイントが一部省略されることなった。中川橋を通り過ぎると丹沢湖は川に姿を変えていた。ほどなく中川温泉の集落で川に向かい下ると、町おこしの町民温泉に出た。その駐車場でバスを降り河原へ向かう。懐かしい感じの河原である。秩父の岩畳の河原に感じが近い。ここで昼食をとり、結晶片岩を観察する。
 結晶片岩になっているのは丹沢層群塔ケ岳亜層群〜大山亜層群下部層ということである。この地層が堆積した年代は約1700〜1400万年前ということである。そして結晶片岩が地上に現れたのは約200万年前頃の足柄層群中部層の時代であるとのこと。
 結晶片岩が出来るための条件は、地層の重み+地熱+封圧(地下の圧力)+温泉水ということ。つまり、一般的には地中深くマグマと接触することが条件である。この中川の結晶片岩は、丹沢の中心をなす深成岩体(閃緑岩)が上昇する際の圧力とその熱や熱水の影響を受けていると考えられている。元となる地層が堆積したのは、約1700〜1400万年前あるが、結晶片岩となったのは1400〜1200万年前と考えられている。地球上で最も新しく出来た結晶片岩といえる。
 説明によると、結晶片岩はこの山北町ばかりでなく、富士山を越えた富士宮市でも見つかっているそうである。御殿場からも見つかっており、山北−富士宮帯に分布しているそうで、この帯(ゾーン)は東北東〜西南西方向に80kmほどの長さと最大15kmの巾を持つそうである。果たしてこの帯(ゾーン)は、どのような構造に起因しているのだろう。

> ダイアピル熱変成モデル(角田氏作成の巡検資料より)

 閃緑岩のマグマは、固まり状で“逆雫(しずく)”の形で地下から上昇してくると考えられ、ダイアピル(上昇体)が想定されている。このダイアピルが熱をもちながら上昇してくるときに、岩石のグリーン化をひきおこし、結晶片岩をつくるモデル化されている。

 変成の時代区分と地層・断層のできかたのくいちがい(角田氏作成の資料より)

 @ 足柄層群は中新統ではない; 1980年代半ばまでは足柄層群は第四紀(180万年前以降)の地層とされていた。また、足柄団研グループは中新世(1800〜600万年前)としているが、ナンノ化石や放射性同位元素を用いた測量により後期鮮新世(300万年前)頃が有力である。松田山累層にほぼ相当する。
 A 足柄層群を切っている神縄断層は、活動のはじまりが中新世末(600万年前)〜期鮮新世はじめ(400万年前)でない。足柄層群は前期更新世後期まで堆積しているから(100万年前)、それを切る神縄断層は中期更新世よりも後に出来た断層である。



第5ポイント 足柄層群の最下位層(溶岩)の観察

 再び、バスに乗り込み、来た道を引き返す。246号に出て、脇道に入り酒匂川に架かる橋のたもとに停車した。地図をみると平山集落と日向集落の中間当たりであった。
 河原に降りると黒いゴツゴツした大岩がある。よく見ると円礫が取り込まれているような感じであった。最下層の底部礫岩ですかと聞いたところ、溶岩であるとのことである。足柄層群の最下位層で泥岩の層理面が垂直に立っていて、相当な圧力を受けたようすである。そこにマグマが貫入してきたもので、マグマが地下から上昇する際に周囲の岩石を捕獲し、その捕獲された岩石がもまれて丸くなったものということである。

 500〜300万年前に丹沢−足柄境界で何があったか(角田氏作成の巡検資料より)

@ 中新世末期の松田山累層、それと同時代の地層をためた堆積盆地とその消滅; 丹沢−足柄境界の松田山付近に堆積盆地があった。500万年前頃に堆積盆地は隆起し消滅した。このことにより、この頃、南丹沢、東丹沢、大磯丘陵北部などが高くなって海から陸へと変化し、地層は褶曲した。
 しかし、これと同じ時代の箱根では、海の地層・湯ケ島層群から浅い海の地層、早川凝灰角礫岩層への変化があっただけで、陸に変わるような事件は見られない。そこには、大量の礫岩もなく、大きく曲がった褶曲も見られない。
A 400〜350万年前に安山岩が噴出した; 400〜350万年前に箱根の須雲川安山岩、大磯丘陵の篠窪火砕岩層、足柄南東部の安山岩が噴出したすぐ後で1000m位の水深の深い海が足柄にできた。足柄堆積盆地のはじまりである。

B とつぜん深海ができた理由; 500〜350万年前まで、足柄、箱根のすぐ南で浅い海があり、はげしい噴火があった後、箱根、大磯丘陵、足柄南東部で安山岩が噴出した。
 その後の350〜300万年前には、すでに足柄堆積盆地の泥岩層が存在したのであるから(第5ポイント)「とつぜん深海ができた」といえる。仮に箱根がもっと南にあったとしても、このような短い時代での移動距離はわずかなものでしかない。したがって、南から押されて撓んだ台地が堆積盆地を作ったと考える時間はない。それより、マグマが抜けた分を埋め合わせる大地の急速な沈降とか、陥没を考えたほうがツジツマが合う。
 もし、その後も引き続いて南からの押しで足柄堆積盆地の凹みが成長したのだとすれば、足柄層群の中部層の火砕岩のマグマは、もぐり込みとは無関係に湧き出したことになる。なぜなら、マグマを作り出すもぐり込み面は足柄の北のはじからはじまるのでから、その南にある足柄区域の地下は無関係になからである。


 以上のことから、プレートのもぐり込みによる大地の凹地(足柄堆積盆地)形成は考えられない。



第6ポイント 松田山から望む足柄盆地・箱根火山

 参加者はみなもまだ見たいという希望を示し、バスで最後のポイント松田山に向かう。山頂はゴルフ場となっており、その周回道路から足柄盆地を見渡す。しかし、残念なことに冬間近に関わらず、暖かい陽気で春霞のようにかすみ、遠く見えるはずの相模湾は視界の彼方であった。箱根火山も、うすぼんやりとかすかに見える程度であった。
 ここで、この巡検のまとめとなる説明を角田氏から聞いた。

 衝突説のポイントは、丹沢と箱根−伊豆とが生まれも育ちも別々の異地性の地塊であるという判断にある。(以下は、角田氏作成の巡検資料をもとに作成)

 衝突説の「判断」の拠りどころは、丹沢には深成岩体があって、大陸〜島弧的な地塊としての性質を有している。しかし、箱根−伊豆は、玄武岩をベースとするマグマでつくられており、海洋地殻としての性格がつよい、という見方にある。

 今回の巡検で、丹沢、足柄、箱根をつくる地層に礫岩層が観察された。礫は陸上の川で生み出されることから、礫岩層を挟んでいる地層が堆積したとき、陸に接しているか、ごく近くに在ったことになる。また、この礫の中に花崗岩や閃緑岩の礫があること、ボーリングによっても、丹沢、足柄、箱根の地下に花崗岩や閃緑岩などの深成岩と凝灰岩(グリーンタフ)があると思われること。このように、それぞれの基盤と地下のしくみは共通しており現地性であることから、遠く南からやってきたという異地性地塊の拠り所はみられない。

 これまでの知見から、フォッサマグナのはじまりは、各地の堆積盆地とも深海の環境であることが知られている。このためには、地盤が沈んでいかなければならず、地盤が横に引っ張られた状態(引張場)になっていたはずでる。このことから、衝突に必要な圧縮状態が、この時期にはなかった。
 1700〜1400万年前に海が拡大した時期があったことが知られている。このとき、同時にマグマが盛んに噴き出していることから、マグマの通路となる割れ目が拡がったとみられている。この意味においても、地殻が引っ張られていなければならない。
 1200〜600万年前にマグマが貫入し、幾つかの地塊ごとに塊上隆起、撓曲、グリーン化の時代があったことが知られている。丹沢山地は、この後に衝突したというが、「衝突境界」になったはずの相模川上流沿いの丹沢層群は褶曲していない。丹沢山地周辺の礫岩層は、閃緑岩の礫を沢山含み、丹沢中央部の盛り上がり=隆起を示している。隆起と同時に北方へのみ圧縮力を加えることはできない。丹沢の南側も箱根の地塊がぶつかったさとれる100万年前より、はるかに古い800〜500万年前に完成しており、衝突とは無関係である。

 以上のことから、丹沢は南の海からやってきたとは考えられない。




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