第329回 日曜地学ハイキング記録
日曜地学ハイキング記録

初夏の秩父路の中生層をみよう



第329回日曜地学ハイキングを平成11年6月20日に実施しました。
地層というものは、順序よく積み重なっている。そう思いませんか。褶曲とか断層は順序よく積み重なった地層に何らかの力が加えられて変形したものです。しかし、もともとは地層は、順序よく積み重なっていました。ところがいろいろな大きさの岩塊をふくみごちゃごちゃの感じの地層があります。もともと違った場所で形成された地層が、のちに混在したと考えられています。このような地層をメランジュと呼んでいます。そこには海溝での出来事がかくされていたのです。


6月20日  秩父鉄道 皆野駅 午前9時20分集合
        解散は同駅 午後3時過ぎ


見どころ:@よそからきた地層や岩石
     A海溝でなにがおこったか
     B地塊の衝突と付加体
内 容:吉田町万年橋バス停より、石間川(いさまがわ)沿いの山道を歩き、
     さらに、低山の尾根まで歩きました。露頭の前で昼食をとりました。
主 催:地学団体研究会埼玉支部、日曜地学の会
案 内:関根一昭(小鹿野高校)
参加費:100円(保険代・資料代)

 ルートと露頭ポイント


@よそからきた地層や岩石

  万年橋のバス停を降りて、石間川に沿って林道を上流に向かって歩き、L1の露頭にでました。渓谷の露頭で、黒っぽい泥岩があるかと思えば、灰色のチャート、白っぽいチャート、石がぐゃぐちゃになった断層とが目と鼻の先に見ることができます。
 このような地層をごちゃまぜの意味で「メランジュ」と呼んでいます。陸地の岩石が風化侵食されてできた砂や泥、それと同居している石灰岩やチャートはそもそも何者なのでしょう。
 このようなごちゃまぜの地層は、関東山地秩父盆地の周辺だけでなく、同様なものは関東山地から中部・紀伊・四国・九州まで、日本列島を横切って東西に広く分布しています。石灰岩の中の化石で時代を探ると古生代ベルム紀(約3億年前頃)ということがわかりました。そこでこのような西日本の地帯は「秩父古生層」と呼ばれていました。近年、硬いチャートの中からコノドントという微化石が発見されました。その化石からチャートの年代は三畳紀=トリアス紀(2億数千万年前頃)とわかりました。
 さらに驚いたことに、泥岩からは、放散虫が発見され、ジュラ紀中期(1億7000万年前頃)であることがわかりました。どうして、石灰岩やチャートと泥岩・砂岩の時代が違うのでしょう。日本の地質の大きな問題となりました。そして、秩父古生層は仕方なく「秩父中古生層」とよばれるようになりました。
 年代が古い石灰岩やチャートは海洋城でつくられたと考えられる岩石です。これらの岩塊をとりまいている泥や砂は陸地が削られてできた砕屑物で、年代が若く明らかに異なる年代のものが混在していることになります。その一つの答えとして、チャートや石灰岩はもしかするととんでもない遠くでつくられ運ばれてきて、泥岩や砂岩と混ざり合ったと考えられるようになりました。石灰岩やチャートは、はるか南から動く海底・太平洋プレートにのって日本海溝までやってきたものと考えたのです。
 林道をさらに上流に歩き、途中から東京電力の送電線鉄塔に向かう山道に入りました。30分以上歩き、尾根にでたところにL3露頭がありました。ここでは、チr-トや石灰岩が、泥岩や砂岩の中に小さな岩塊として存在しています。チャートや石灰岩は、泥岩と断層で接していたり、とりかこまれていたりしています。このような岩石を混在岩と呼んでいます。  
 
 L1露頭(右)とL3露頭(左)での観察の様子


動く海底・太平洋プレートにのってやってきた岩石



 L3露頭 混在岩


A海溝でなにがおこったか


 関東地方の銚子沖にある第一鹿島海山は、深海底というよりは日本海溝のなかに位置している海山です。それは玄武岩の溶岩からなり、頂上は平らで、上に石灰岩がのっています。この海山は断層で切られて真中で二つに割れ、日本列島に近い側の半分が海溝にずり落ちているようになっています。その周囲では、陸側からもたらされた泥のなかに、玄武岩や石灰岩が崩壊してできた多量の破片や塊が落ちていました。石灰岩にふくまれている巻貝や有孔虫の化石から、その形成年代がおよそ1億年前のものであることがわかりました。陸側からもたらされた泥は現在たまりつつあるものですから、このことは、現在の泥のなかに、一億年前の岩石がうめこまれていることを表わしています。全く異なる年代の岩石が海溝で一緒にたまっている、つまり混在しているのです。
 石灰岩となったサンゴ礁が発達していることから、もともとは熱帯で形成されたものです。その海山ははるか南から動く海底・太平洋プレートにのって日本海溝までやってきたもので、いま、日本列島の下へと沈み込もうとしていることを表わしています。同じように北海道沖の襟裳海山も、やはり太平洋の海底にのって移動してきて、日本列島の下へと沈み込もうとしています。海山が壊れながら、一部は海溝の堆積物のなかに混じって陸側へとおしつけられ、残りは地下へとひきずりこまれていく、その現場だったのです。
 このようにして混在岩は形成されたと考えられます。



B地塊の衝突と付加体

 はるか南から動く海底・太平洋プレートにのって日本海溝までやってきたものが、日本列島の下へと沈み込もうとし、一部は海溝の堆積物のなかに混じって陸側へとおしつけられ、残りは地下へとひきずりこまれていく、こんなことをおこす原因として、地球表面をおおうプレートの運動が考えられています。
 移動するプレートが岩石を運んできて、プレートが地球内部に沈み込んでいくときに一部がはぎ取られ、そこに堆積していた砂岩・泥岩とともに陸側に押しつけられたとみられています。このようにして陸側に付け加えられたものを「付加体」と呼んでいます。
 このようにして混在岩は形成されたと考えられます。
 海溝は付加体形成の「付加作用」の現場なのです。そこで、遠くから運ばれてきた古い岩石と、いま堆積しつつある新しい岩石が混ざり合っているのです。。全く異なる年代の岩石が混在しているその謎が解けてきました。

 

1.秩父累帯北帯のユニット分について

 関東山地の秩父累帯北帯は、藤本の研究より上吉田層、万場層、柏木層の区分を基礎としている。現在は「層」とよぶことはほとんどなく、「ユニット」とよばれている。これは本地域を含む地質体が、付加体構造に基づく研究により、以前のような概念の地層を成していないことが明らかになったからである。
 藤本の研究を基礎とした上吉田ユニット、万場ユニット、柏木ユニットのほかに、風早峠ユニット、上吉田・万場ユニット、新定義の上吉田ユニット、西御荷鉾ユニット、住居附ユニットなどが提唱されている。本日の露頭のうちL1、L2露頭は上吉田ユニットに、L3露頭は万場ユニットに属する。

2.付加体について


 以前はこの地域からはあまり化石が出なかった。しかし1980年代より放散虫化石が精力的に研究され、関東山地でも放散虫化石があいついだ。そのいくつかは本パンフレットにも示してある。放散虫研究の進展につれて奇妙な事実が明らかにされてきた。それは泥岩とチャートや石灰岩の年代が明らかに異なることである。泥岩はジュラ紀中期(1億7000万年前頃)、チャートはトリアス紀(2億数千万年前頃)、石灰岩はベルム紀(約3億年前頃)である。しかもチャートができた場所は大洋底で陸から遠く離れた場所である。石灰岩も大洋底にそびえる海山の上に形成されたと考えられる。またプレートテクトニクスにより海洋底は常に動いている。これらを重ね合わせて考えると、大陸のはるかかなたで形成されたチャートや石灰岩などがプレートの動きに乗って大陸の緑まで運ばれてきた。大陸からは河川の浸食により大量の泥がもたらされている。大陸縁で沈み込むフレートの影響で、外来性の岩石と大陸由来の泥岩とがまざったものと考えられる。両者の時代差もうまく説明できる。このようにしてできたものを混在岩とかメランジュとかよぶ。この地域にはさまざまなスケールで混在岩が存在する。本露頭のように私たちの日常感覚的なスケールから山全部がブロックと考えられるような大規模サイズまでさまざまである。


3.放散虫化石について
 放散虫は珪質(二酸化ケイ素)の殻をもつ0.1mm程度のプランクトンである。海に浮遊しながら生きている。死ぬと海洋底に沈み堆積する。チャートは無数の放散虫の遺骸が集積してできた岩石である。チャート以外にも泥岩にも多数含まれる。フッ酸という強い酸で溶かすと放散虫遺骸をまるごと取り出すことが可能である。これを電子顕微鏡で観察しながら形態や模様の様子や内部組織などを細かに調べると放散虫の種類が決定し、他の資料と照合することにより、時代を知ることができる。本地域からも多数の放散虫化石が得られている。特に泥岩から比較的保存良好の放散虫が産出し、時代は中生代ジュラ紀であることがわかった。

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